人生に行き詰ったらバイクに乗りなはれ

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10年前の自分と今の自分は変わっているか?

誰でも時々自分の人生を振り返る機会はあるだろう。
そうして振り返った時、今の自分と10年20年前の自分の在り方に
変化はあるだろうか?

そりゃ、年を重ねていくんだから当然ライフステージによって
変化してはいく。

人と年齢的な話になった時、大体の人が“変わった”と口にする部分は
概ねこの“ライフステージの変化”の部分。
ぶっちゃければ「年取ったな」って話だ。

でもそうじゃなく、
自分の自由意志に則って変化させる事が出来た部分
はあるだろうか?
もしくは
ライフステージの変化に流されず、維持している部分
はあるだろうか?

私は、今10年前の自分を振り返ると物凄く変わったと思う。
内面のような人からは見えない部分や加齢的な変化を除いて考えても、
容姿もライフスタイルも別人だ。
でも、相変わらず絵だけは描いている。

どうしてそんな事になったのか?

今思えば、切っ掛けは一台の小さなスクーターだったと思う。

 

“バイクに乗ってる絵描き”が生まれた訳

プロフ写真を見ればわかる通り、私は“バイク乗り”だ。
ライダーやバイカーと言えばカッコいいのかもしれないが、
“バイク乗り”っていう言い方が好きだ。

趣味と言えば趣味。
生活の足と言えば足。

これ一台で奈良・京都・石川まで行ったかと思えば、
近所のスーパーで夕飯の買い出しもする。

ママチャリが並ぶ駐輪場に、
この渋いバイクがドカンと停まっている様は
実にシュールだ。

とにかく、停められる所がある場所なら大体何処でもバイクで行く。

当然、お客さんとの打ち合わせもバイクで行く。
それが例えば隣の県でもバイクで出掛ける。
私にとって、自宅から半径150km圏内は近所だからな。

そんな調子で最近はすっかり
“柴猫さん=バイクの人”
というイメージが固定化され、皆勝手に
「若い時から乗っている」
と思っている。

でも、実は私がバイクに乗り始めたのは30過ぎてからだ。

 

大人から始める“バイク生活”

30代の半ば、ちょっと色々あり殆ど絵を描かなかった時期がある。
その間、約4~5年。

14歳の頃から一応本格的に絵に取り組み始めて、
それからずっと暇さえあれば絵を描いていた。

そんな人間から、ポコっと“絵”というパーツが消えた。

何だかんだで、やっぱり私のアイデンティティは“描く”という所にある。
そのアイデンティティが消失した。

今思えば逆にこれは良かった。
何しろ、その空白は私が初めて手に入れたモラトリアムの時代だったから。

しかし、元々人より血の気が多く、その血の気を全部紙に叩きつけていた
“パワー型”の人間なので、その矛先のやり場に困った。

そんな時、どうゆう気まぐれか一台のスクーターを買った。

 

バイクと共にモラトリアムを走る

私の元へやってきたのは、既に製造中止になっている
“SUZUKIのヴェルデ”というスクーターだ。

ベスパ似のオシャレな外観に似合わず、かなり良く走る。
特に出足は最高というゴキゲンな一台だ。

バイクと呼ばれるものを買ってみたのはこれが初めてだったけれど、
それまでバイクと縁がなかった訳じゃない。

10~20代の前半までは、友達にスクーターを持っている奴や、
乗るのに自動二輪免許が必要なバイクに乗っている奴もいた。
そしてうちの親父という人は、元々バイクが好きで、
昔はCB750やビラーゴを所有していた。

若いうちはそうゆう人に乗せてもらったり、借りたり、
パトカーに追い回されたりした事がある。
だけど、社会人になると皆“車”に乗り始めた。

皆より早くバイクを手放した親父はリターンライダーにはならず、
何故か馬に乗った。

20代の頃も時々バイクを思い出し乗ろうと思った事はある。
が、その度に
「絵描きがそんなモノに乗って手を痛めたらどうするんだ!!」
と、当時の担当さんや周りに怒られ、そしてそれも正論なので諦めた。

バイクに乗るよりも私は絵が描きたかったからな。

だが先に書いた通り、その情熱の矛先が消失した。
その時ふっと
「そういえば、昔バイク欲しかったよな」
と思い出した。

で・・・人に頼んで安く手に入れてもらったのがヴェルデだ。

勿論、この時もやっぱり似たような事は言われた。
だけど・・・・

もし何処かに絵の神がいて、
もしソレがいつか私に情熱を返す予定なのだとしたら、
絶対に私の手はなくならない。

いるかいないのか定かでもないムーサに賭けた大博打。

オマケに難易度を上げるかのように、私は郵便配達員になった。
仕事はお世辞にも楽とは言えないが、これは今までやった
ライスワークの中で一番面白かった。
とにかく4年間、ひたすら自分の足とカブで走った。

実はその間仕事中に一度事故っているが、手どころか殆ど無傷で、
事故った1時間後には普通に配達してた。
(っていうか、問答無用で配達に出されるのが郵便局なのです)

きっかけはまた別にあるが、そうして走り回っているうちに
紙に向かい合う気が湧いてきて、私は再び絵の世界に戻ってきた。
どうやら私はムーサとの大博打に勝ったらしい。

ただ、その時代の置き土産としてバイクは残った。
しかも原付ヴェルデから普通二輪免許が必要な今の愛車
“HONDA CB400SS”にグレードアップして残ってしまった。

ひょっとしたら、この残ったバイクライフは
ムーサからの配当金
なのかもしれない。

バイクは不便だからいい

もはや中年もいい所のババアが嬉々としてバイクに乗っていると、
乗らない人々は不思議がる。

バイクの一体何処がいいのか?

そうだな、バイクの良い所は・・・・

  • 夏は暑いし、冬は凍る。
  • バックギアなんかないから、車庫入れも車庫だしも人力
  • 長く乗ればケツは痛いし、屋根がないから雨降ったらずぶ濡れ
  • 二輪なのでバランスを崩せば倒れる
  • 車とぶつかれば吹っ飛ぶのは必ずバイク
  • エンストされたりパンクされて、重い鉄の塊になったバイクを
    押して歩いていると「もうこんな乗り物嫌だ」と思う。

だけど、そこがいい

だってさ~、つまんないじゃん、簡単な事って。
中々出来ないから面白いんだよ。

RPGだってさ、最初からLv.99で開始直後に魔王倒したらクソゲーだよ。
恋愛ドラマだって、いきなり主人公とヒロインが引っ付いて、
残り11回、ずっとイチャイチャのズッコンバッコンだったら見る価値ねぇ。

あの初めからラブラブ夫婦が主役の「ダーマ&グレッグ」だって、
毎回騒動が巻き起こるから面白いんだ。

人には成功を夢見ながら容易くそこに到達すると価値を見出せないと
いう心理がある。

ある程度のハードルがあるから先が気になる。
ついやりたくなる。
夢中になる。

そして真剣に向かい合えば、必ずしも楽しい事ばかりではない。
絵もそうだ。
確かに私は絵が好きだ。筆を持つときは心が躍る。

でも、真剣になればなるほど力不足も感じる。
苦悩を感じる。
でも好きなんだ。そしてその苦は楽でもある。
更にその苦を乗り越えた時の気持ちは黄金に値する。

死ぬ時は何をしてても死ぬ

とにかくバイクに乗っていると
「事故が!怪我が!死ぬよ!」
としつこく言われる。

いやいや、そんなの承知の助ですよ。
とっくの昔に知ってますよ。
乗ってないアンタ等以上に知っているって。
といつも思う。

私の好きな著名人は結構バイク事故で死んでいる。
友達も死んでる。
でもそれ以上に病気で死んだりもしている。
別にバイクだけが絶対に死に直結する話ではない。

人が死ぬ時は椅子に座ってても死ぬ。
寝てても死ぬ。

死ななくても何してたって怪我する時は怪我する。
洗濯干しててギックリ腰になった奴だっているんだ。

逆に死なない時はレースで200キロ出して転倒しても死なん。
実際、今上の階にそうゆう元バイクレーサーが住んでる。

そして五体満足でも描けない時は描けない。
あの4年間の私がそうだったからな。

“起こりうるリスクを避ける”というのは生きる上で大事だ。
でも“それで行動しない”のはまた別の話。

皆目の前のリスクに囚われ、そののちに生まれる
“後悔”という心のリスクには何故か着目しない。
不思議だね。

人に見せたい景色があるのは幸せな事

バイクに乗る時はいつも一人だ。

確かにタンデムやサイドカーという選択肢もあるが、
車のように横に座っておしゃべりしながらっていうのはバイクにはない。
インカムつけたら別かもしれんが、それするなら車でいいじゃんって思う。

マスツーリング(集団で走るツーリング)でも一緒だ。
皆と並んで走っていても、ハンドルを握りアクセルを開けるのは
“自分自身”

そうゆう所は少し人生に似ている。
何だかんだで、人は一人で生まれて一人で死んでいくんだ。
ゆりかごから墓場まで連れ添ってくれる人は誰もいない。
人は人に囲まれていても結局一人だ。

それでもバイクの上から見る風景には沢山
“誰かに見せたい”ものがある。
一人で走っているにも関わらず、私はいつも
“誰か”に思いを馳せる。

10年前に比べると私は随分変わった。

己が筆を降ろす紙より白いと言われた肌はすっかり焼けて黒い。
腰まで伸びた絹の髪は、短く切られてメットの中。
年中メット被って高速を走っているせいか、首が太くなった。
薄かった肩には筋肉がついて太ってないのに以前着ていた
シャツが入らない。

やりたい事に合わせて自分を変えたのだから当たり前だ。
でも一番変わった所はやっぱり中身だ。

「これを誰かに見せたい。この気持ちを誰かに伝えたい」

その想いがとても強くなった。
今私の描くモノには、そうゆう想いが含まれている。
直接その風景を描いていない時にも、そうゆうものが筆に乗る。

そうゆう風に思えるのは、とても幸せな事なんじゃないだろうか?

人生に行き詰ったらバイクに乗れ

私に絵描きとして生き方を示した師は
「絵は一人で描くものだ」
と私に言った。

彼が私に見出した才能は画力でも表現力でもなく、
“孤高を苦にしない才能”
だった。

だけど、絵でもバイクでも一人で色んなモノを見ていると、
その気持ちが溢れて、どうしても誰かに伝えたくなってしまう。

一人の画家で一人の美術教師だった彼は、そこまで見越して
私に絵描きになれと言ったのだろうか?
今となっては確認のしようがない。

現代は昔に比べるととても便利になった。
特にネットが発達してからは、いつでも誰とでも繋がれる。
言い換えれば“一人の時間”が持てなくなった。

情報が多いというのは、選択肢が増えたという事だ。
選択肢が増えると人は迷う。
そして常に人と繋がれるというのは、
それだけ面倒なしがらみも増えるという事だ。

そしてそれらは心的エネルギーを削る。

ここ数年、私より年上の人々が非常に迷走している。
私もその世代に入るが、こうゆう
“常に人と繋がった状態”
というのに慣れてない人が、流行りに乗って繋がった結果、
迷って心的エネルギーを枯渇させて暴走しているんだと思う。

でも、この人たちは馬鹿ではない。
むしろ賢い。本来賢い人ほどそうなる。

そんな人にはバイクをお勧めする。

理由は簡単。
イイ感じで馬鹿になれるからだ。

真冬の高速とか走っていると、寒さで頭のネジが飛んで
もうなんか色々どうでも良くなって笑いたくなってくる。
真夏もそうだ。
太陽とエンジンの熱に焙られていると笑いたくなってくる。

ゲリラ豪雨に行き会った時は最高だ。最高に笑うしかない!

笑わないと、馬鹿にならないと乗れんのだ、バイクは。

人は大人になって賢くなると、必死に走らなくなる。
明日があるから。
明後日があるから。
だから温存しよう。
そして今、目の前にある大事なモノを見失う。

バイクも確かに出掛ける前に色んな事を予測して装備を整える。
でも実際走り出すと今目の前にあるものを見据えないと走れない。

時々、ついつい走りすぎて「しまった~疲れた~」と半死人で
ハンドルを握って走る姿は、調子に乗って遠くまで遊びに出た子供だ。

でも、それが大人にはいい薬だ。

バイクなんてほぼ積載能力0だから土産買わなくても誰からも咎められない。
物がなくても土産話は沢山出来る。
スマホかコンデジ持って出れば写真は撮れる。

ライダー同士は割と話をするから出た先で友達も出来る。
そしてそうゆう友人は普段のしがらみの外だ。

そうゆう意味じゃ自転車でもいいんだろうけど、
人力だけだと移動範疇狭くなるじゃん。
海外旅しても良いけど、それ仕事や家庭を持ったままじゃ難しいっしょ?

ここが若い人と年食った人の違いで、
若い時にやると良い事と年食ってやると良い事って違うんだよな。

大人にはバイクでツーリングくらいが丁度いいんだ。

特に今まで線路の上を行くようにしていた人は、
いきなりオールフリーに放り出されると逆に動けない。

ほら、たまに定年後のお父さんが
やる事なくてアル中になったりするじゃん?
あれがその最たるものだよ。

いきなり「好きな事していいよ、自由だよ」
って言われると逆に困っちゃうんだな。

“バイクは自由な乗り物”と言われているが、
実際には交通ルールあって、道もある。
でもどの道を走るかは自分次第。

その位の自由が丁度いいんだ。

 

思い当たる事がある人は、今からでも遅くない。
車校に行って免許取れ。で、バイク買え。
そこまでしなくても自動車の免許があれば原付は乗れる。
安い原付なら5万で買える。買ってこい。

保険として携帯は持っても良いが、電源は切れ。
財布持ってメットを被り顎紐をしっかりしめろ。

前後左右を確認して、ウィンカーを出したら、
アクセルを開けて走り出せ。

行先なんて何処でもいい。
とりあえず行く先に困ったら
“今しか見れないもの”
そうゆう旬のあるものを目指して走ればいい。

4~5年もそうしていれば、嫌でも何かが変わる。

勿論、その変化の良し悪しを決めるのは自分自身だし、
変化が分かるのはずっともっと後だ。

でも、今走らないと一生そのままだよ。

まぁ試しにやってみなさい。
それが人生に行き詰った大人にバイクBBAが言える事だ。

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