数字の話 ~寿命がぽっかり浮かんでら~

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しばらく、何処までも普通な猫の闘病記を書かせてもらったが、
さぁ皆様お待ちかね!

理不尽劇場不思議な話の時間だよ!

あるに決まってるだろ、
巨猫にだって不思議な話はあるんだよ!!

だって、
猫は存在自体が怪異そのものなんだから。

数字の話

ここで日々、嘘くさいが一応本当の話を
書き綴っているが、
実はまだまだ口に出せない話が沢山ある。

あるんだ、そうゆう話も。
‟時が来るまでは口に出すことが許されない”
そうゆう話が多々ある。
今回はそのうちの一つを告白する。

 

事の始まりは数年前。

そう、数年前から始まっているが、
その間、誰にも言った事がない。

‟それ”が始まったのは、
長老が旅立った後からだと思う。
年数にして、およそ4~5年前だ。

その頃の巨猫は、
持病の膀胱炎と結石はあれど、
まだまだ元気だった。

確かにどんな小さな病気も
後々大きくなるかもしれないが、
一度肝炎で肝臓が半分くらい壊れた猫が
20年生きたのだから巨猫も大丈夫だろう。

なんて思っていた。
いや、“自分に言い聞かせていた”ほうが正しい。
何となく、一抹の不安があったのだ。

自分にも言い聞かせ、
更には巨猫にも
「お前は長生きしろ。長生きしていいから。
せめて初代くらいには生きてくれ」
と事あるごとに言っていたんだ。

そんなある時。

アイツの姿を何気なく見ていると
時折
「13、14」
という数字が浮かぶのに気付いた。

以前、そのような外からやってくる言葉の話を書いたが、
それの音ではなく文字バージョンというわけ。

スピリチュアルな世界で‟数字”というのは、
それ自体に意味があるとか
パワーがあるっていうのは
私でも知っているが、
これはそうゆうものではない。

解釈するもなにもなく
単純に数字として出ているのである。

さて、猫にまつわる事で
「13、14」
一体何の事だろう?

視える度に考えたが、
先に述べたように私は誰にも言った事もなければ、
独り言であっても口に出したことはない。

これもつまりは‟怪異からの呼びかけ”と
等しいものであり、
おいそれと口にしてはならない。

例えそれが相談であっても
‟口に出す”
という行動は、
それを私が認めた事になるからだ。

何となく予想はついていたが
その予想は当たると私の意に
かなり反する。

ゆえに私はそれをトコトン無視し、
むしろ見る度に呪文を通り越して呪いのように
「長生きしろ~絶対長生きしろ~」
と巨猫に囁き続けた。

数字の意味

察しのいい方は既にお分かりだろうが、
この数字というのは、つまり
巨猫の寿命
だったのである。

ちなみにダンナやジジイも
余命を察知する事はあるらしいが
このように何年も前から数字で提示されたのは
見た事がないという。

もっとも、こうゆうものは
視え方に個人差が大きいし、
視えるものもまた個人差が大きい。
単純にアイツらに視えないものが視えたから
能力的にどうという事はない。

 

今更こんな話をするのは後出し感ハンパないが、
こうゆう形で見えた&
こんな何年も前から見ていたのは初めてだし、
私自身が全力否定したい事だから
どうにも後出しにしか出来なかった。

しかし、どうして数字が二つ見えたのだろう?

それについては、
実際に亡くなった時期から推測してみる。

巨猫は誕生日不明だが、
元々コイツを世話していた餌やりさんの話から推測すると
春生まれである。

数字が13と14に跨っていたのは、
春生まれの巨猫が、
年齢を跨ぐ頃と解釈すれば
合致するといえば合致する。

あるいは、元々寿命というのは
何月何日何時何秒単位で決まっているのでなく、
物理的要因その他諸々の影響を受けやすい
ある程度ザックリとしたものなのかもしれない。

去年の手術の時は、推定13歳になったばかり。

だから、去年の手術の時、
「これか?これの事なのか?」
と戦々恐々としていた。
(あんな記事を書いておきながら・・・だが、
内心かなり狼狽していたんだよ)

しかし、私の心配を他所に手術は無事成功。
ひょっとしたらこれで少しは変わったのかもしれないと
思っていたが・・・・
やはり、時折浮かぶ数字は変わらない。

手術で結石がなくなったわけではない。
だったら、まだ泌尿器で?
いや便秘か?
と思っていたら、
全くもってノーマークの骨髄である。

この時の気持ちは、筆舌に尽くしがたい。

余命について思う

この25年の間に
私は巨猫以外に3匹の猫を看取っている。

他にも、友人、親父、従妹、祖母、
行きずりの猫や鳥、
様々なモノを見送っている。

そこで気付いたのは、突然死でもない限り
死期が近づくにつれ
気配が非常に透明になっていく
という事だ。

これを「影が薄くなる」と表現してもいいが、
やはり私の感じ方としては「透明になる」のほうが
しっくりくる。

物理的に透明になるわけではないが、
何かが透き通り輝きだす。

その様子は‟肉体”という殻が少しずつ剥がれ、
中の光が透けて見えるかのようである。

確かに美しいものだが、
それは同時にもう余命いくばくもない事の証だ。

巨猫の場合、実はあまり透明ではなかったが、
代わりにあの数字が提示されていた。

 

こうして何となく余命を視るようになって
どのくらい経つだろう。
多分、15年以上は経っている気がする。

その間、このいわば
“天から下される死亡フラグ”
へし折ったものは少数である。

こうゆうものを
「羨ましい」と言われる方もいるが、
よく考えてみて欲しい。

これは、絶対に止める事が出来ない
時限爆弾のカウントを
四六時中見ていると同じ事だ。

これこそが「知らぬが仏」
だと私は思うんだがね。

とはいえ、私はどうゆう訳かそれを知ってしまうわけで、
知った以上は知る前には戻れんのだ。

こうゆう場合、どのような選択が正解なのか
私にはいまだに分からない。
そもそも、この問題は正解などないのだとも思う。

だったら、
私の気の済むようにやるしかない。
私が感じたようにやるしかない。

で、今の所、
最期まで諦めないという
選択を取っている。

“終わりを見据えながら
それでも覆すことを考える”
というのは、
非常にアンビバレンスで精神衛生上よろしくない気もするし、
単純に「諦める」という決断が出来ないだけなのでは?
とも思う。

更に私の欲で対象を悪戯に苦しめているだけなのか?
とも思う。

でもな、あの最期の朝も
巨猫は私に甘えていたし、
初代も最期の数日になるまで
毎日足を引きずって私を出迎えた。

そのどちらも別に私が強要した事ではないのだ。
それは彼らの自由意思なのだ。

その姿を思い出すたび
“無理やり生かしている”
とは違うと思う。

苦しい闘病の中でもひと時の安らぎがあり、
私が葛藤と戦う事で本当の終焉を迎えるまで
1度でも多くそれを与える事ができるなら
自分の思考だろうが、
宿命だろうが幾らでも喧嘩してやる。

それが私、柴猫由貴という
狭間に住む人間の生き方だ。

まぁ私の元に辿り着いた時点で
そこに従わざるおえない部分はあるだろうが、
皆が皆、そうゆう戦う生き様でもないからな。

あっさりと出て行く奴は出て行く。
実際に長老とエリンギはあっさりと
出て行ってしまったからな。

まぁこれらも正解が分からない以上
自己弁護に過ぎないし、
そもそも人は何かと理由をつけたくなるものだが
本当の所、生にも死にも特別な意味などない。
ただの生命サイクルである。

そんなのはとうの昔に分かっちゃいるが、
ただのサイクルで済ますのも
面白みがない。

ひとまず、
平々凡々な一介の絵描きに出来る事は、
獣の命が尽きるまで
飯を食わせて、
いざ命が尽きたら
冥府への道のりを後ろから見送る。

それだけしかないんだ。

 

そのために私は今日もまた
様々なモノの狭間に立つ。

生と死の狭間。
人と獣の狭間。
夢想と現実の狭間。

まぁ・・・結局のところ、
どっちにも所属出来ないだけなんだけどな。

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