対価の行方 ~運命の鎖を握るモノ~

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私はかつて、
一世一代の大博打と言わんばかりに
自分の寿命を掛けて
猫の命を助けてくれるように
願掛けをした事がある。

これはその15年以上後、
猫が天寿を全うした後の話だ。

対価の行方

そもそも私が神社の祭神を気にしだしたのは
30を過ぎる辺りからで、
それまでは、何処へ行っても
「神さんは神さんだろ?」
という調子だった。

別に日本神話を知らないわけではないが、
あれとまるきり一緒くたに考えていいのか?
というと微妙な気がするのだ。

まぁ最近はやはり社ごとに雰囲気違うから、
とりあえず付いている名前で分類しているけれど。

いずれにしろ当時は自分が願掛けをした神が、
一体何処の誰で、どうゆうお方なのか
全然知らずに・・・・願掛けをした。

その結果、偶然に偶然を重ねて
私と猫は名医の所へ辿り着き、
なんとか命が助かった。

もちろん、私はこのありふれてはいるが、
絶妙なタイミングで起きた偶然を引き起こしたのは
今もあの社の神だと信じている。

年を経て、お神のご神徳を知った今は、
なおさら否定できない。

 

ただ、腑に落ちない所があるとしたら、
対価を持って行かれた感じがしない所だ。

いやまぁ、対価が寿命なわけで、
その寿命自体が目に見えないものだから
分からなくて当然なのだけれど、
なんつーか、妙に・・・効きすぎ。

 

とりあえず、生命の危機は脱したとはいえ、
この件で猫の肝臓の大部分は壊れてしまった。

件の名医にも
「多分、数値は元に戻らない」
とは言われていた。

が・・・長老の肝臓は完全回復した。

いや、本当に言わなければ医者も分からないほど
血液検査での数値が普通になってしまった。

大病の痕跡として残ったのは、
例のヤブ医者に切開された時に剃られた
‟腹の毛のハゲ”
のみだ。

オマケにそこまで大病をしたのであれば、
長生きは出来ないものと思われた。

が・・・彼女は20歳の少し手間まで生きた。

もちろん、加齢に伴い悪くなる部分もあったが、
それ以降大病をする事もなく、
大して寝たきりになる事もなく、
ある春の日、私の膝の上で息を引き取った。

そりゃ、飼い主としては長く生きてくれたらありがたい。
が、一抹の不安を覚える事が私にはあった。

神の目分量

長老が天寿を全うする頃には、私も大分年を食っていた。

幸いなのは、顔のシワと一緒に脳みそのシワも増えていて、
お神や神社についてのごく一般的な
アレコレソレという知恵がついていた事だ。

だから、かつて自分が願掛けをした神が、
一般的にどうゆう由緒があって、
どうゆう性質の神かというのは分かっていた。

色んな説、色んな見方があるが、
ここの神は私にとっては山神(山岳信仰)で、
とどのつまり・・・・

超・相性のいい神

の一つだった。

山神というか、山。
少なくとも私にとっての山は、
彼岸と此岸の間にそびえ、命が流転している場所。

いつの頃からか、この願掛けの事を思うと

神さんと思しき、大きくもたおやかな白い手が、
渦巻く命の中から、何かを一握り掴みだし、
猫にフワっとかける

という、とてつもない映像が浮かぶようになっていた。

 

それを繰り返し見るうちに
本当は他所に行く分を
うちが取ってしまったんじゃないか?

と、心配になったのさ。

そりゃ、猫が長生きするに越したことはない。
そして、別に私の所から必要なものを
持って行くのは構わない。
私の猫なんだから。

だが、他所の分まで頂くのは駄目だ。

この世は弱肉強食とはいえ、
他の分を必要以上に奪ってまで・・・
というのは好かん。
そんな浅ましい真似は出来ん。

だが、いつの間にか頭に過ぎるようになったあの映像。
その様子は、あまりにも・・・無造作だった。
まさに‟神目分量”

元気な猫を愛でつつも、
小心者の私が一抹の不安を覚えないわけがない。

どんなに良いモノでも多すぎてはいかん。
欲をかいてはいかんのだ。

 

しかし数年後、初代黒猫が亡くなり、
その数か月後辺りから長老にも
きちんと終わりが見えるようになった。

これは、別に特に医者から余命宣告をされたわけでなく、
私が自分で予兆と定めているものだ。

そしてその予兆は外れることなく、
現れてから半年ほどで、
彼女は20年に及ぶ一生を終えたのである。

そして長老が死んだ時、
不安として思っていた事を
件のお神に問うというか、
お返しに伺わねばならんと思った。

お礼参り再び

願掛け自体のお礼参りは、
猫が退院してすぐに行っているが、
猫の死後、私はまたお礼参りに行った。

いやお礼もあるが、
もしも余分に借り受けているものがあれば、
お返しするため
に神社を訪れた。

そうして久々に訪れた社は、
桜が満開だった。

早朝の人っ子一人いない参道。
あの日、猫を思って何度も往復した参道を
てくてく歩いて拝殿に立つ。

「あの時助けて頂いた猫が天寿を全う致しました。
もし余分に借り受けているものがあればお返し致します」

そんな感じで下げた頭を上げようとしたら、
後ろでふいにチリンチリンと鈴が鳴った。

早朝とはいえ、他に参拝者がいる事も珍しくない。
てっきり誰か来たと思って振り向いた。

・・・誰もいない。

いや、確かに今後ろで・・・いや、後ろというよりも
あれは足元で鳴っていたな。

そういえば、
猫が最期まで付けていた首輪には小さな鈴がついていた。

元々は、前年亡くなった初代黒猫がしていた首輪で、
その子が亡くなった時、
寂しくないように長老に付け替えてやったのだ。

それ以来、猫が身動きをすると、
今のような小さな音がしていた。

・・・・・・・どうやら、猫も私と共に訪れたらしい。

猫は室内飼いではあったが、
治療の途中、何度かキャリーバッグに入れたまま
一緒に参った事がある。

そして猫に
「あそこにおわす神さんは、お前の命を助けて下さったんだ。忘れるなよ」
と言って聞かせた事もある。

これは益々余分に借りていて、猫まで返却と礼に来たのか?
と思い、
それならこれでOKだろうと思ったのだが・・・
どうもそうでもなかったらしい。

お礼と返却で石川へ

確かにお礼には伺ったし、
申し出る事も申したし、
どうも猫までそこに同行していたようだが、
なんだかスッキリ‟返した感”がない。

そりゃまぁ、私は0感で神の啓示など
受けられるはずもないんだが、
必要な事というのは、実は0感のあるなしとは別に分かる。
というより

‟強制的に理解させられる”

というのは、それまでの経験で分かっている。
それがないという事は、
この件、まだ終わってない。

「・・・・本山まで来いというやつか」

そんな訳で、その夏
私は石川の本山まで愛車で出掛けた。

流石に山の頂にある奥宮まで・・・という訳にはいかないが、
麓の総本山という所にお邪魔したわけだ。

朝っぱらからバイクかっ飛ばし、
途中走る予定だった白山スーパー林道が通れず、
別ルートでヘロヘロと辿り着いた白山の総本山。

改めて拝殿でお礼を述べて、要件を言う。
私は霊能者でも霊感があるわけでもないから、
それをした所で何かが聞こえるわけじゃない。

が、頭を上げると
デコに受領印を押された(笑)

いや、もちろん例えなんだけれど、
あの時の事を言うとしたら、
頭を上げた瞬間に
「はい、ご苦労さん!これ受け取り!パァァン(判子)」
って感じだったんだよ。

ただな、この受領印でよく分かった。

寿命というと「命の長さ、生きる時間の長さ」と思いがちだし、
実際そうゆう意味だけれど、
ここのお神の解釈は違ったんだ。

猫を助けてもらってから、その恩をずっと覚えていた事。
猫の死後、私が改めて礼に来ること。

更に本来なら来なくてもいい本山まで
往復500kmという距離を走ってくるという時間と労力

いわば、私の人生の一部を薄切りにするように
持って行ったのである。
(その中には、一日中シートに座り続け、
ケツが4つに割れそうなほど痛くなる苦痛も含まれる)

というか、全部知っていたんだ。

私がこうしてバイクを乗り回す事になるのも、
本当に借りたものがあるのかどうかも分からないのに
自力で石川の本山までやってくることも
何もかもご存知だったんだよ、最初から。

受領印にはその情報が全部入っていた。

前にもそうゆう事があったけれど、
その一発で、10年を超える大きい因果を見せられたわけだ。

呆然として境内を出て、
バイクに乗って一人きりになると、
その膨大な情報の意味が解り、
もうメットの中で大笑いするより他になかった。

あぁ、やっぱり神は何処まで行っても神なのだ。

有名パワースポットより、まず近所の神社

この神社は、まぁ石川の本山はともかく
私が参っていた社は、
世間でいう所の「パワースポット」などではない。

街中のごくごく普通の神社で、
特筆すべき事は桜が綺麗という事くらい。

それでもある時には、こうゆう事がある。
いや、ぶっちゃけ・・・何かあるのは
大体こうゆう小さい神社だ。
チョビ髭の八幡だって、確かに鬼門封じだけれど八幡の本山じゃないし)

 

皆、パワースポットとか
最強の●●神とかって
アチコチ行くけれど、
私はよく人に
「まずは地元の神さん大事にしなさい」
ってよく言うんだよ。

それはね、こうゆう事が実際にあったからだ。

確かに私は自分の命を懸けて願掛けしたし、
白山は先に述べたように私にとっては相性のいい神だ。

だけれど、その前の大前提として
「何にもないけれど、ただ挨拶だけしに毎日通ってた」
っていうのがあると思うんだ。

もちろん中には例外の所もあるけれど、
私は基本的に有名かどうかより、
自分がどれだけ世話になっているか?
を重視して参っているんだよ。

‟近隣に住む”というのは、
もうそれだけでそこの主の世話になっているって事でしょ。

そうじゃなくても私は神社の半径100m外に住んだこと殆どないしな。
(社見えない所に住むとミノムシ大発生するしさ・・・)

いくら神と人の価値観は違うと言っても、
人に対してやったら失礼な事は、
神でも同様なんだと思う。

特に何もなくとも‟何もない事”について
「ありがとうございます」って言うのとか、
大きなお願いごとをするなら、
相応の対価を支払うっていうのもそうなんじゃない?

 

神さん気まぐれだからな、
同じ事やって同じ結果出るか?って言ったら
分からないし、
アチラが「駄目だ」と言ったら
そこからテコでも動かないんだけどさ。

でもさ、たまには
こうゆう事もあったりするのよ。

私のような特に人徳があるわけでも、
霊能力があるわけでも、
●●チルドレンとかいうわけでもない、
ごくごく平凡な絵描きにも
こうゆう事があるんですわ。

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