仏を求めて46里 ~奈良・吉野で会った自分の仏~

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表に出す出さないはさておき、人には
必ず大なり小なり「好み」や「相性」というのがある。

変える事が可能なモノは別として、
本人の努力ではいかんともしがたいモノもある。

んでこれは神社仏閣を参る時も発生する話。

美と寺アウェイ

年間通して一番行くのは神社だが、もちろん寺に行く事もある。

最近は特に仏画を描いてみたくなり、その参考に仏像を見て歩く。
別に必ずしも国宝クラスの仏像じゃなくても、
神や仏を模した像や絵は見ていて面白く、
敷地内のそこかしこの装飾も一般建築では見られない趣があるので
非常に参考になる。

西洋東洋問わず、神仏の前で使われるものは美しく出来ている。

私は昔から西洋絵画も宗教画が好きで、
子供の頃に日曜学校に通っていたのも
教会の中にそうゆうものが飾られていたからだ。

信仰なんかそっちのけ。
でもそれでいいじゃないか。
私は巫女でも尼僧でも霊能者でもない、ただの絵描きだ。
絵描きが美を愛するのは、神仏にかしずくより説得力のある話だろ。

それに何だかんだ言って、私は西洋東洋問わず、
あぁゆう祈りの場の空気が好きなのだ。

そんな訳で「あそこの〇〇が見事だ」
なんて話を聞いたらバイクをかっ飛ばして出掛けて行くのだが、
一つ困った事がある。

神社はいいんだ、神社は。
確かに相性というのはあるが、私の場合良し悪しではなく、
‟良し”‟無”しかない。

相性のいい所に行けば、その気はなくても何だか調子が良くなり、
それ以外の場所はただ何もないだけだ。
プラスマイナスじゃなく、プラスか0しかないって事。
そして0というのはあまりない。

だが、寺は選ぶ。
いや、入って極端に具合が悪くなるって事は今の所ない。

が、大概の場所というのは、いる間中落ち着かないというか、
アウェイ感がついて回る。
寺によっては・・・というか大体そうなんだが、敷地に入った瞬間、
何かをスッと抜かれた感じがして、気を付けないと膝カックンしそうになる。

神社はホイっと入っていけるのだが、
寺はちょいと心の準備をしなけりゃ入れんのだ。

美術品か信仰の象徴か

冒頭の話の通り、最近は仏像を見に寺へも行く。
というか、別にそれまでだって寺へ行く事はあったが、
そこで仏像を目にする度に密かに思っていた事がある。

ピンとこねぇぇぇぇ~!!

これは見て美しいと思わないとかそうゆう話ではない。
仏像に手を合わせる事についてピンとこないのだ。

結局私の頭の中の信仰らしきものというのは、
やや自然崇拝に近い。

八百万の神々とはよく言ったもんで、
私は別に拝殿や石像が目の前になくても
自分が「おっ」と思ったものを拝む事がある。

木、山、太陽、
そうゆう形としてあるんだが、別に宗教的意味で存在していないものも
あぁと思えば拝む。

そこに神がいようがいまいが、私には関係ない。
自分が頭を下げるべき、下げたいと思うものには勝手に頭が下がる。

普段そんな事をしているので、
目の前にさぁ拝め!とばかりに仏像があると
逆にピンとこない。

皆がそれに手を合わせるのは、その像に何か不思議な力があるからではなく、
そのバックグラウンドにあるものに祈りを捧げているのだとは思うんだが、
ピンとこない。

だって、神も仏も見えないから神仏じゃないっすか!!

拝む対象が物理的に見えるというのは非常に分かりやすい事だと思うし、
仏教がここまで支持を得て日本に定着したのもそれがあったからだと思うんだが、
どうも私にはピンと来ないのだ。

私にとっての仏像は宗教的偶像物というより仏教美術品としての価値しかない。
造形の良し悪しは分かっても信仰的ありがたみが分からん。

更に私はどうも大仏さんとか観音さんとか優し気な顔の仏はピンとこない。

そりゃ造形を見て「優し気な顔だ」とか
「穏やかな顔だ」とかそうゆうのは分かるよ。
ただ、じゃあそのバックグラウンドを拝めるか?
と言うと微妙。

よく仏像見て「ありがたいお顔」という表現があるが、
それに素直に「うん」と同意出来ない。

ありがたくないとは言わないが、ありがたいとは思わない。
・・・・普通なのだ。

もちろん、作法や礼儀があるから形だけはやるけれどな。
大体頭の中で「何に頭を下げているんだ、俺は??」
思いながら下げている。

そう先の神社の相性で「プラスか0」の0しかないのが寺と仏像。

強いて言えば、お不動さんや毘沙門さん、仁王さんのような
「厳つい仏」は好きだ。
目の前にした時、安らぎより緊張感が先に立つくらいの仏が好きだ。

しかし、やはりそれに手を合わせるのは何処となく違和感が残るのである。

神仏の個人的イメージ

何故そうなる?と理由を問われたら、
多分これは私の「お神イメージ」に由来するのだと思う。

皆さんは「神降臨」って言葉からどんな場面想像するだろう?

光輝く雲に乗り、薄絹をまとった美しい人が天からふわりと舞い降りる
イメージだろうか?

私のイメージというのは、
地鳴りや地震、雷鳴のとどろく中、
割れた地面から咆哮を上げて飛び出してくるイメージ
・・・なのだ。

別にどっちのイメージが正しいという話ではない。
あくまで神仏に何を求めているか?
どのような存在であって欲しいのか?
という個人的好みと言っていい。

察しのいい人は「あぁ」と思うんだろうが、
私のイメージというのは完全に国津神系というか、
山神のイメージなんだよ。

これは私が元々そうゆう信仰の根付いている土地出身者だから、
そうなるのだと思う。
気候の厳しい土地だから、
それを神格化すると荒ぶる神になるんだよな。

それを仏に平行移動して考えると、
上記のような厳つい強面の仏というのが
そのイメージによく合うのだ。

だってさ、私のあのイメージで出て来たの観音さんとか・・・
それこそネタ事例じゃねぇかよ、キャラ崩壊だろう(;・∀・)

私の神仏に対するイメージは慈悲とか癒しではなく、
畏怖とか力強さというのがベースになる。

同じ土地の出身者が皆このようなイメージを抱いているとは思わないが、
私は自分のイメージに説明をつけるなら、こうゆう事なのだと思う。

自分の仏に会う

まぁ私は仕事で縁起物の絵※を描く事もあり、
お客さんからも「仏画、どうなんですか?」と言われる事もあったんだが、
何しろ仏像見てもこんな調子なので、あんまり描いてみようって気がなかった。

※縁起物の絵といっても、飾ると幸運になるとか、
波動が上がるという触れ込みのものではない。
縁起のいいものをモチーフにした何処までも普通の絵である。

それが「描くか」と思い立ったのは、もちろん訳がある。

吉野山の権現さん

私が足繁く通う奈良には吉野という場所がある。
吉野といえば一番賑わうのはだ。

人々はかつて豊臣秀吉も子供のようにはしゃいだという
3千本の桜を見るために山へ集う。

かくいう私も初めて吉野へ行ったのは春の事だった。
たまたまテレビで‟一目千本”という映像を目撃し、
急に行ってみたくなった。

吉野山の中千本あたりに
世界遺産として有名な金峯山寺蔵王堂がある。

そこには伝説の怪人・役小角が降ろしたとされる
金剛蔵王権現の像が祀られている。

毎年桜の時期はそれをご開帳していて、
どうせだったら拝んでみようと列に並んだ。

で、ド真ん前まで行って姿を拝ませて頂いた時に思った。

「あぁ、これが仏だ」

はじめはデカさに圧倒されたのか?とも思ったんだが、
どうやらそうでもないらしい。

前に座ると妙に落ち着くというか、
今までのあの‟ピンとこない”というのがない。
それどころか、今までボケていた部分がカチっと噛み合った気さえする
当然、勝手に頭が下がるのである。
礼儀だからとか作法だからじゃなく、頭が下がる感覚。
それこそ土下座しそうな勢いで下がる。

しかし・・・姿はさておき、妙に覚えがあるな、この仏。
そもそも吉野山自体が初めて来たのに初めて来た気がしねぇ。
これが俗に言う既視感というものか?
いやいや、確実にこの雰囲気に覚えがある。

蔵王と言って真っ先に思いつくのは山形の蔵王スキー場。
実は「拝んでみるか」と思ったのもここが頭にあったから。

実家からはかなり遠いスキー場なんだが、
親父がここをいたくお気に入りで、
実家にいた頃は年に一度必ず行ってた場所なんだ。
(遠いので二泊三日くらいで行く。学校も仕事もほっぽり出して行く)

確かにあそこは蔵王権現像もあるらしいが、私は見た記憶がない。
(地蔵は見たけどな。地蔵もあるから)
そもそもやっぱり仏像の姿として覚えがあるわけじゃねぇ。
もっとこう感覚的な記憶だ。
あ~え~と、確かもっと身近な所にもあったはずだ。
あ・・・実家から見えるあの山にある神社の創建伝承だ!

帰宅後、元々修験場だったその山を検索すると、
やはり役小角が開いたという伝説が残っていて、
最初の祭神も吉野から勧請した蔵王権現だった。
(前に調べた時、本当に一行くらいその事に触れていたものを読んだ)

今は違う祭神が祀られている例の天狗ハウス神社
結局そこの里宮だから、元々はお不動さんと権現さんが祭神だったんだと。
(最初は天台宗の〇大師という人が彫った仏像が安置されていたそうな)

あ~なる、なるほど。そりゃあ、覚えがあるだろさ。
生まれてからずっとその山見て育ってんだから。

権現さんは実家の山とよく似てらっしゃる。
優しいというより、何処か厳しい空気をまとった
あの山によく似ているんだ。

んで、これから「あぁ仏画やってみようかなぁ」と思うようになり、
暇さえあればチマチマと習作を作っている。

なんというか、あのピンとこなささ加減というのは、
やっぱり相性というやつで、
多分、私はずっと自分の仏を探していたんだ。

蔵王権現という仏

ここでついでに蔵王権現とは何か?
という事に触れさせてもらえば、
日本に元々あった山岳信仰と仏教が結びついた修験道の本尊だ。
呼び名については金剛蔵王権現、または金剛蔵王菩薩という呼び方もある。

この仏を最初に祀ったと言われているのが役行者(小角)なんだが、
なんかこの時の話が凄い。

どうも最初に釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が順々に姿を現したんだが、
「今の時代、お前らのような生易しい仏じゃあか~ん!!」
とダメダシをし、最終的に出て来たのが蔵王権現とされている。
(これは諸説あり、出て来たのは弁財天と地蔵尊という話もある)

で、その時権現さんの姿を桜の木に彫りつけたので、
権現さんのご神木は桜って事になり、
いわば奉納のような形でどんどん桜が植えられ、
今のようになったという。

如来にしても何しても立派な仏だと思うんだが、
それでもあかんと言った役行者が凄すぎる。
つーか、ヒデェ(;・∀・)

まぁしかし、天才とか伝説になる人っていうのは、
多分こうゆう人じゃないと駄目なんじゃないか?とも思う
エピソードである。

蔵王権現の「権現」とは「権(かり)の姿で現れた神仏」という意味で、
菩薩から、天地を納める全ての神々の力を包括する
なんともオールマイティなものである。

結局、最初に現れた釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したものらしい。
吉野の蔵王堂におわすほぼ同じ姿の3体の仏像は、
そのそれぞれを象徴しているそうだ。

これを神道に置き換えて見ると、
大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、
同一視されているそうだ。

結構こうゆう置き換えみたいなのはアチコチで発生していて、
件の実家の山も薬師如来が本尊となっていた事もあるらしく、
その役割一致から、のちに少彦名命とすり替わったらしい。
(今の祭神は大己貴命、少彦名命、土地神さんのトリオ構成)

仏像、まぁ仏は、さも日本生まれのように仰々しい漢字の名前がついているが、
実際は外から渡ってきたものが殆どで仏典に名前があるし、
サンスクリット語の別名(梵名)というものがある。
弁財天の「サラスバティー」なんかは有名だよね。

ただ、この権現さんだけは完全なるメイドインジャパンの仏で、
仏典には名前がないんだそうだ。

まぁ私も専門家じゃないので、これ以上細かい事は分からんし、
説明も難しい。
(神仏習合とか雑密とか、更に神仏分離とか本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)とか
本気でやると泥沼にハマる危険な分野)

うんちくは多々あるが、結局あるHPで見かけたこの言葉が
私の感じた事の全てな気がする。

日本で生まれたこの仏は、
自然の霊威を体現した姿だとも言われる。

住みやすいとか生きやすいというのは別として、
私はやはりこの国が好きだ。
この国の自然が好きだ。

その厳しさ、偉大さ、懐の深さ、そうゆうものを
全て織り交ぜてあるのがあの仏なのだろう。

自分の感性を信じてもいいじゃない

この一件で、前ほど仏像に手を合わせるのに違和感はなくなったんだが、
それでも相変わらず大仏や観音さんはピンとこない事が多い。

蔵王権現も本地仏は釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩なんだから
一緒なんじゃないのか?とも思うんだが、
どうやら私の中では別モノのようだ。

結局、この蔵王権現の後から仏画をやってみようと思い、
前以上に仏像を見て回るようになったが、
ピンと来ない事を気に病む部分がなくなった。

いや、あまりにも周りが「ありがたい、ありがたい」
と言っているのに
自分だけピンと来ないって、
なんか自分はおかしいのかなぁって思う時もある。

でも実際は単純にそれまで自分の感性やルーツにピッタリと合うモノに
出会えていなかっただけなんだなぁって分かって、
そうゆうもんなのかって納得したんだよな。

そして確かに相変わらず「寺アウェイ」なんだが・・・・
アウェイじゃないのは修験道系の寺だとよ~く分かった。

そりゃぁ、神も仏もフワッフワしたイメージ湧くわけねぇ。
ゴリゴリじゃないか、ゴリゴリ(笑)

 

こうゆう事をしていると、必ず人のそうゆう部分に
因縁というかケチをつけてくる奴というのはいる。

菩薩とか如来とかそうゆうものがピンとこんって事について
「あなたの人としてのレベルが低いからそうゆう高い地位の仏の事がわからない」
「強いモノを求めるのはお前が弱いからだ」
とか
まぁ色々勝手に言ってくれちゃったもんだ。

別にな他のものについて多少のリップサービスは構わん。
儀礼として頭を下げるのも構わん。
ただな、神さん仏さんについては私は嘘はつきたくないんだよ。

分からねぇものは分からねぇし、
ピンとこんものはピンとこん。
代わりに「あぁこれだ」と思うモノ出会ったら、
心の底から頭下げりゃいいんだ。

分からんものを分からんというより、
さも分かったように言うほうが不誠実だと思うがね、私は。
そんな奴が頭下げたって水飲み鳥が頭下げんのと大して変わらんわい。

まぁこうゆう好みや相性が血統からくるのか、
それとも前世の縁からくるのか、
はたまた個人的センスなのかは知らんけど、
のべつ幕なしどれもこれもっていうのは、
多分ないんだよなぁ。

そして「誰かに言われたからコレ」っていうのもないんだわ。
そりゃ干支ごとの守護仏っていうのもいるし、
参考にするのはいいだろうけどね。

ただ、自分で納得いかないものを無理に好きになる必要はないって話。
そして人が信じている物を値踏みしたり、
格付けする必要もないって話だわ。

 

別に拝んだからって何か良い事あるわけじゃねぇけど、
自分が心から「あぁ」と思えるものに出会えて、
頭を下げられるというのはありがたい事だなぁ。

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