
名前以外で人が私を表す言葉は沢山ある。
沢山あるが、ひとまず職業的なカテゴリーで行けば
「画家さん」とか
「イラストレーターさん」とか
「デザイナーさん」
というのが、自他ともに認める職業だ。
雅号やジャンルは変われども、20年くらい前から
“描く”
という事でお金を頂いている。
んでもって、10年くらい前からは
「柴猫由貴」
というヘンテコな名前で、こんな感じの絵を描いたり、
名刺やチラシのデザインをしたり、必要ならライティングもやって
飯を食っている。
こんな仕事なので私の所へ来て下さる方は、絵や音楽、文学みたいな
“日常の嗜好品”
のようなものを愛する人が多い。
ただ、そこにもう少し付け加えると
“不思議な話”
“奇妙な話”
が好きな方が多い。
まぁ、もっとついでに言えば
“ドM”
も多い(爆)
ドMはさておき、
前者の人々が仕事を抜きにしても何故私の所へやってくるか?
それは私が、
こうゆう方々のお好みの与太話を沢山所有しているからだ。
何でだか昔から私の周りには
“奇妙な事件”と
“奇怪なモノ”
が寄る。
“奇妙な事件”とは、偶然にしても面白れぇなぁって事。
“奇怪なモノ”とは、現実にはいるはずがないモノ。
昔から私はそうゆう
“日常と非日常の境界”
みたいな所にポコっとハマる質らしい。
特に後者については自分でも
「こりゃ~頭のネジが2~3本飛んでいるのだろうか?」
と思ってはいる。
が、非常に残念な事に一度たりとも心理査定に引っかかった事がねぇ。
それどころか「合理主義の理論人間」なんて結果が出やがる。
つまり今の精神医学の基準でいけば頭はマトモなんだ、一応。
それにも関わらず、日常と非日常の境界に引っかかった時、
そうゆうモノを見て、聞いて、嗅いで、触ってしまう時がある。
どうしてそうなるのか、何となく分かっちゃいるが、
明確な原因は特定出来ない。
確実なのは「抜けられない」という事だけ。
そんな時、合理主義の人間が取る方法は一つだ。
どうにもこうにも抜けられないなら
それをトコトン楽しむより他にするべき事はない。
いい加減か? でもさ、
あるのかないのか分からない原因を追い求めたり、
嘆き悲しむより遥かに建設的だろう?
毒を食らわば皿まで。
同じ阿保なら踊らにゃ損。
人生なんて楽しんだもの勝ちだ。
どうせ身に降りかかるのなら、思う存分絵と話のネタにしてやる。
先に言った通り、うちのお客さんはこうゆう話が好きな方が多い。
いつの頃からか、望まれたらこうゆう話を語るのは
“サービスの一環”
って事になっている。
ただ、こうゆう話というのは思い出した時に残さないと結構忘れる。
つまり、ここは私とお客さん用の忘却録って事だ。
私がここで語る事は一応私としては事実であるが、
「絶対信じろ!」というつもりもない。
世の中に出回っている話、
特にネット社会の話で確実に信用出来る話なんて一握りだ。
それ以外の事については、全て読む人間の自由。
自由というのは自己判断で自己責任だ。
だから、一介の絵描きの与太話などに興味がない奴は
サクッとブラウザを閉じればよい。
与太話を信じなくても好きな奴は創作として読めばよい。
そして与太話が好きな奴は、
これは世界の境界にある数多の風景の幾つかを語ったもの
だと思ってくれればいい。
別に私が見たり感じる事が世界の真実とかじゃないからな。
最後に改めてこのブログというか、私という人間の大前提として
言っておきたい事は、
普段人様が私をなんと呼んでも、
日常的に私に何が見えいても、
私自身は特別でも偉い人間だとも思っちゃいない。
そう、私はただ白い紙の前で神の作りたもうたこの世界を
どうやって再現しようか頭を抱えて右往左往する
“どこにでもいる平凡な絵を描く人”
以外の何者でもない。
そんな絵描きがたまに筆を休めて不思議な話をしている。
ここはたったそれだけの場所だ。
そんなわけで、どちら様もどうぞよろしくお願いします。