終焉までの穏やかな日々 ~またいつか君と暮らしたい~

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ダラダラと書き綴る巨猫の闘病から最期までの日々も
そろそろ終盤である。

無事に退院を果たし
自宅に戻った巨猫。

ただ、私には何となく終わりが見えていた。

そうゆう話と死と
それにまつわるちょっと色々な事が今日の話。

ぼちぼち生きてる一週間

今にして思うと退院後の巨猫は、
あんなにあっさりと逝ってしまう様子はまるでなかった。

いや、退院するまで
酸素室をレンタルしてみようとか
色々考えて、
主治医にも相談したりしていた。

しかし、酸素室もあれはあれで
絶対的にいいものではないし、
室内を歩き回るのが好きなら
逆に自由にさせたほうがいいんじゃないか?
という事になった。

実際、退院後の巨猫は
自宅に辿り着くなり
いつもの調子でキャリーバッグから飛び出し
そのまま走って自分の所定の位置である
ベッドまで行ってしまった。

・・・まぁこうゆう奴なのである。

 

今回の発作は何が原因かははっきりしなかったものの
一番思い当たる事は脱水だ。

基本、経鼻カテーテルからの食事&水分補給、
それに加えて自力で飲む分で必要な水分は取れているはずだが、
それでも脱水気味なのは、どうも巨大結腸のせいらしい。

巨大結腸の猫は水分の吸収率が悪いらしく、
結構水分を取っているように見えて
ちゃんと吸収されていないようだ。

それに加え嘔吐もあるので
輸液点滴で様子を見ても良かったが、
折角自力で水分は取れるし
ロイヤルカナンの電解質サポート
購入してみた。

これはいわゆる動物版のポカリスエット粉末みたいなもので
粉末を規定量の水に溶かして飲ませる。

規定量に溶いたものを味見したが
ほんのり甘みがつくくらいで
特に嫌がる様子もなかった。

他にもペットボトルに入ったタイプなども飲ませてみたが、
特に嫌がる事もなく、
これらだけだと嘔吐する事はなかった。

※ロイカナの電解質サポートは、一応療法食なので
与える際にはかかりつけの医師の指示を仰いでください。
アミノペッツは、普通にペットショップで購入できるものなので、
夏に向けて常備しておくといいかもしれません。

脱水の状態も退院から2日後の診察では特別悪くなく
しばらくこれで様子を見ましょうという事に。

発作を除いても状態としては
本当にゆるゆると一進一退を繰り返し、
元気な時は元気だし、
ダルそうな時はダルそうだった。

ダルい時はこんなダル顔だが、
元気な時は犬が占拠したホットドッグベッドを獲りに行く。

巨猫は何かを得るために相手をどつく事はしないので
無言圧力戦法である。

相手が退くまで動かない。

圧!!(笑)

まぁ始終こんな調子で、
特に変わった事はなかった。

退院後、薬のお蔭か、
はたまた電解質サポートのお蔭か
発作が出る事はなかった。

前夜

亡くなる前日も特に変わった事はなかった。

どちらかと言えば、ダルそうにはしていたが
それでも自分でホットカーペットの上へ行ったり、
食事の時には甘えたりしていた。

ただ、夜に私が洗濯物を出し入れするために
窓を開けた時、
妙にキョロキョロと辺りを見回していた。

私は年明けのあの時のように
ハッキリと何かを感じたわけじゃなかったが、
巨猫には何かが視えていたようで
キョロキョロし、
鼻を動かし、
しばらくして何とも言えない神妙な顔で
いつもの姿勢に戻った。

そして迎えた翌日。
彼は静かに旅立って行ったのである。

四十九日を迎えて思う様々な事

早いもので、あれから四十九日が経った。

勿論、別に人も猫も
きっちり49日で出て行くわけではない。
あくまでも‟大よそ”である。

そこで本人らしき気配を見かけると
時期も時期なので
「桜が散るまではこちらにいて、
ゆっくりと春を楽しんでから行けばいい」
と言って今日までやってきた。

今の気持ちを正直に言えば
寂しいとは思うが落ち込んだりはしていない。

私自身は、誰が何と言おうとも
巨猫は己の寿命をキッチリ全うしたと思う。
そもそも“死”とはそうゆうものだ。

早い、遅いというのは、残されたものの主観に過ぎず
本人にとっては‟ちょうどいい”なのだと思う。

大体な、確認も証明も出来ない事だから
そう思うしかないんだよ。

果たして巨猫は幸せだったのか?

実は頂いたお悔やみに混じって
巨猫の幸せに対して疑問を持つ声が混じっていた。

その方とは一面識もないし、
普段やりとりも全くない。
正直、その方が猫を始めとする
動物が好きな方なのかも分からない。

そもそも、自分でも何でその方と相互フォローになっていたのかすら
分からない程度の付き合いである。

・・・なのだが、ポコっと一言
「幸せだったのかな?」
コメントが入っていた。

これは、多分、ペットを亡くした人皆が思う事なので、
私の考えを述べよう。

巨猫が幸せだったかどうかなんて
本人以外誰にも分からない。
うっかりしたら本人すらイマイチ分からない。

この事を考えるのであれば、
‟そもそも猫の幸せってなんですか?”
っていう根本まで話を戻さなければならないし、
恐らくマトモに猫を飼っている人であれば
事あるごとに阿保ほど考える事である。

私の非常に個人的な考えを言わせてもらえば、
基本的に動物は生きる事しか考えてない
と思っている。

人のように苦しいからもう死んでしまいたいとは
思わないものだと思っている。
大体な、人間の不幸や悩みは
他者と自分を比較して発生している事が多いんだ。

動物はそんな阿保な事しないから。
自分の事しか考えてないから。

私が看取った獣たちは、
皆最期まで生きるために足掻いていた。
それが掌に乗るサイズの子猫までだ。

ただ、死を拒否はしない。
足掻くだけ足掻いて、最後に受容する。
少なくとも私にはそのように見える。

元々自由な野良だった巨猫を
室内飼育にしたのは
人の都合ではあるが、
巨猫に限っては別にそれは負担ではなかったと思う。

何故なら私の元へきて以来、
彼は外へ出ようとした事が1度たりともないからだ。

何しろ網戸越しに外を見ていても
ほんの少し人影が見えたり、
物音がしただけで
家の奥へ走り込む猫である。

彼にとって‟外”は自由以上に恐怖がある場所だったのだろう。
外にいる間、それだけの目に合ってきたのだ。

私も自由を求めて実家を飛び出し、
この街で野良猫のように暮らしている。
だから、何となく分かる。

自由とは、ピンク色の希望にだけ満ちているだけのものじゃないと。
自由とは、常に沢山のリスクと引き換えにしか得られないモノだ。

家の中は、確かに自由とは違うかもしれない。
だが、我が家はほんの少しの不自由と引き換えに
それ以外は好きに出来る。

何しろ人よりも獣の数が多く
主導権を獣が握っている
‟賃貸アパート内動物王国”
である。

木はないけれど、高低差のあるアトラクション(本棚)があり、
誰にも追い出されない日だまりがある。

ボス(長老)はいるが、
そのボスは自分を息子のように可愛がってくれる。

生前、散々毛繕いしてくれた姐さんは、
死んでも時々様子を見に来てくれる。

自分より小さい兄やんがいて、

‟やや動きのウザイ顔の長い猫”もいる。

娘(笑)は、大分おきゃんだが、
まぁ所詮はおきゃん娘なので取るに足らない。

ここに乗せた写真は、別に良い所だけを切り取ったわけではなく、
これが我が家に来て馴染んでからの
巨猫の基本的日常
である。

巨猫は、我が家の誰とも
本気で喧嘩をした事がない。

天地神明に誓って言う。
巨猫は誰とも大きな喧嘩をした事がない。

本気でやれば、絶対にこの群れのボスになれただろうに
一度たりともそんな事をしたことはなかったんだ。

それは、この場所と仲間たちを
彼なりに気に入っていたって事の証に
ならないんだろうか?

そしてその事は、
‟彼にとっての幸せ”
だと数えていいのではないだろうか?

そうゆう事情まで全て知っていて
あのようなことを言ってきたのだろうか?

それならば、逆にその方の思う‟猫の幸せ”とは何か
ご教授頂きたいし、
それが正解なのだと証明して欲しい。

ペットが死ぬのは意外と悲しい ~あなたの仲間はここにいます~

「飼っていた動物を亡くすのは
親を亡くすより悲しいとおっしゃる方が多いです」

というのは、火葬をしてくれたペット葬儀社の人が
言っていた事である。

これは私自身も人から聞く話だし、
実際、自分の親を数年前に亡くした私としても
正直、親が死ぬより猫が死ぬ方が悲しい。

勿論、これだって人によるから
皆が皆とは言わないが、
ペットを亡くした人は存外悲しみが深いというのは
周知しておきたい。
そしてそれを表に出せない人も多い。

出せない原因は、言えば当然のように
「たかが犬(猫)が死んだだけで」
という反応をされるのが目に見えて分かっているから
である。

命が損なわれ、二度と戻る事がないという重さに
違いはないのだが、
対象が人間ではないとなると
何故か軽く見られがちである。

本当はそうゆう思いは誰かと共有し
話を聞いてもらうだけで軽くなるのだが、
日常では中々出来ないものだ。

でも、広い世界を探せば
そんな人ばかりではない。
必ず、気持ちを分かってくれる人はいる。
同じ気持ちを抱いた事がある人は必ずいる。

だから、もしこれを読んでいる方の中に
心無い事を言われ凹んでいる人がいたら
そんなの気にするな!!
と言いたい。

そんな奴の言う事は聞かなくていい。
そんな事であなたは心を痛めなくていい。
あなたは、ただ自分が愛するもののために
涙を流せばいい。

誰が許さんでも、私が許す。
私が許可する。

はい、これで周りから色々言われても
あなたには私という味方ができた。

だから、落ち込んだり、
自分を責めたりしなくていい。

悲しみの深さというのは、
人それぞれだし、
同じ一人の心の中でも一定ではない。

若い個体の突然死や事故死はショックだし、
老衰でも長い年月を共に過ごした者が
いなくなるのは寂しい。
闘病の果ての死も
「もっと出来る事があったのではなかったか?」
と切なくなるものだ。

悲しくなるのは、それはあなたが
動物をモノとしてではなく
ちゃんと血の通った生き物として
愛していた証なのだから、
誰が何を言っても
恥じたり、自分を叱責する必要はない。

そしてアレコレ考えてもらえるのは、
もうその子は幸せだったという事だ。

私はそれでいいと思う。

また君と暮らしたい

巨猫と暮らした12年、思えばあっという間であった。
本当に奴には困らされてばかりいた気がする。
つーか、端的に言えば本当金のかかる猫だった。

・・・大体な、アイツの死後に入院代が請求されたのだが、
その額4万7千円だ。

・・・なんという置き土産なのだろう。

でも、でもなぁ、
また一緒に暮らしたい
って思っちゃうんだよなぁ。

また2年近く根競べしてもいいしさ、
また莫大な治療費掛かっても捻出してやるからさ。

いつでもペット飼育可の物件で
待っててやるから、
アチラの暮らしに飽きたら
戻って来いよ、巨猫。

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