一番奥の「魂の座」

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一応最初のうちに私の職業的な話もしておこうと思う。

ジャンルとして、一応今は「水彩画」がメインで仕事をしている。

が、大体作品を見せると
「これ、私の知っている水彩画じゃありません」
と言われる。

その人の思う水彩画がどうゆうものかは知らんが、
とりあえず私はこんな感じで描いている。

一応肩書に“水彩”と入ってはいるが、
「絶対に何が何でも水彩絵の具で描かなけりゃいかん」
という拘りはない。

私の創作スタイルに一番マッチするのが水彩絵の具というだけの話だ。

必要があれば、色鉛筆で描く事もあるし、ペン画もやるし、
最近はアクリルも使う時は使う。

名刺などについては、Photoshopやillustratorを使って作成する。

画材や手法にはそれぞれ得手不得手があるので、
“表現したいものによって変える”
というのは私の中では“あり”だ。

 

それと、人によって違うんだろうが、
私は依頼されて描くのも自分が描きたくて描くのもどっちも好きだ。
なので、どっちもやっている。

別に「芸術とは自己表現だ」とか思わないし。
でも人が描く以上は、全然自己の考えが入らないという事もないと思う。

それは、例えリアルを追求する具象画であってもだ。

 

リアルを追求していると必ず言われるのが

「写真みたいですね」
「見たまま描くなら写真でいいじゃない」

この二つだ。

まぁ感想というのはその人の自由だから、
言う事自体は禁じない。

ただ、私が写真にケンカを売るためにリアルを目指していると思うのなら、
それは大いなる誤解なので一応言っておきたい。

別に想像だけで描いてもいいし、デフォルメのようなものも描ける(笑)

 

実は元々コミック系イラストレーターだった

今はこんな感じだが、実は20代の頃はコミックイラストを描いていた。

まぁこうゆう絵も描いていたわけだ。
二頭身キャラとかもっと簡略化したものも当然描ける。
最近はあまり描かないから、今描けと言われたら時間は掛かるが、
やっぱり描けるのである。

こうゆうものは常に特定のモデルを見ながら描くわけじゃない。
そもそもコミックイラストって結局人体や顔面そのまま描くわけじゃなく、
デフォルメだから。

こうゆう分野は今でも好きだ。
漫画も読むし、アニメも見る。
(ちなみに今私の中では「ゴールデンカムイ」が一番熱い)

これはこれで描いていて楽しかった。
確かに締め切りに追われるのは辛いが、それでも楽しい。

でも、楽しい日々にも転機はあるし、変わる時は変わるのだ。

 

だって美しいものが好きなんだもん

ある時、ふっと
「そもそも絵を描き始めの頃は何が楽しかったのか?」
と考えた。

それを分かりやすく言えば
「自分が美しいと思ったものを最適な状態で紙の上に再現する事」
なんだよな。

んでこの“美しいモノ”ってのは、日常に溢れている。

比喩じゃなく、私には世界がとても美しく見える。
別に絶景とかじゃない。
普通の日常の風景にも「あぁこれは美しい」と思うものが多い。

その代表が動物だ。

子供の頃から、とにかく動物が好きで堪らない。

幸い私は動物に好かれるほうのようだが、ぶっちゃけ懐かなくても好きだ。
見ているだけでもいい。

犬でも猫でも鳥でも、生きて動いているのを見るのが好きだ。

例えそれが、雨に濡れて薄汚れた野良猫でも美しい。
カラスでも美しい。

完璧なんだ、私にとっては。
そのままでいい。
むしろ、そのままがいい。

しかし、命あるものはいつか消えてゆく。

その輝きの片鱗を永久にとまでは言わないが、紙の上に座らせてみたい。
そのままでいいんだから、デフォルメとかしなくていい。
自己表現なんぞ知らん。
そもそも「これをこうゆう風に描きたい」って思うのが自己じゃん。

そこから・・・今のような作風に入っていった。

まぁ、表向きはな。

 

・・・・ここから先が“私ならでは”だと思う。

 

内から差す光はなんだろう?

いつの頃からか、私は生きているものを見ると光って見えるというか、
こう、内側からぼわっと膨れて見えるようになっていた。

それこそ気球のように、中に熱源・光源があってそれで外側が膨らむ感じ。
外が光っているんじゃない。内側から差すような光だ。

それが動物であれば毛の先、髭の先まで行き渡り、
完璧な造形に更に輝きを与えている。

先に言った通り「あぁこれは美しい」と思ったら描いてみたい。
そして「美しい」と思うものが、いつも形のあるものとは限らない。

そりゃぁ、骨格とかそうゆう外側のモノもあるけれど、それ以上に
“コレ”
が描いてみたくなった。

ただ、そんな風に感じるのは自分だけだと知っていた。
そして、自分の思い込みなのかもしれないとも思っていた。

だから、最初のうちはダンナにも誰にも言わなかったんだ。

なんだけど・・・大体こうゆう時って決定打みたいな事が起きるんだよな。

 

提灯の灯りが消えたら、それが提灯だと分からない

ある時、うちの猫が死んだ。
本当に前兆らしいものがなく突然死だった。

たまたま自宅にいて、急いで病院まで運んで処置はしてもらったが、
結局駄目だった。

その時気付いた。

知らない間に私は外側だけじゃなく、
その内側のモノにフォーカスして個体識別していた事。

“頭で見る”・・・つまり“日常的に物を見るようにして見る”と
「あぁうちの猫だ」
って分かる。

でも、その“「綺麗だな」って感じている部分”・・・
分かりやすく名前をつければ“心の目(笑)”で見ると
「うちの猫・・・だよね?」
ってなっちゃうんだ。

完全に識別できないわけではないが「?」がつく。

 

以前、人に「何かに例えて説明してくれ」って言われて考えたんだけど、

例えば提灯や行灯があるじゃん?

普通は中に火が灯っていなくても提灯や行灯だって分かるだろ。
それが私には火が灯らないと、それが提灯や行灯だと明確に分からない。

そうゆう違いだ。
「理屈では分かるんだけど・・・なんか違う」っていうやつ。

それを“それ”たらしめる、一番大事なパーツが欠けている感。

 

猫だけ、動物だけなのかと思ったが、人でもそうだった。

猫の後は今度自分の親父が死んで、死に目には間に合わないけれど、
当然、遺体とは対面した。

正直な話、もしあれが何処かの死体安置所で他にも沢山遺体があったら
・・・私は多分どれが親父か判別できないと思う。

確かに手とかそうゆう部分的なものを見ると見慣れた親父の体だとは分かる。
でも全体で見ると「え~~~???」ってなっちゃうんだ。

親父とはそこまで仲が良くなかった、いやハッキリ言えば悪かったが、
一応親子なので、流石にショックではあった。

そりゃそうだろう、実の親の顔見て
「コイツ誰だっけ?」
に近い事思っちゃったわけだもん。

 

更にその後、猫を2匹看取った時もそうだった。
どちらも大往生で、2匹のうちの1匹は末期の腎不全で2か月近く闘病した。

猫を看病しながらずっと見ていると変な事に気付いた。

猫が・・・・段々透明になっていく。

勿論、肉体が透明になるわけがない。
これは受ける印象の話だ。

「影が薄い」という言い回しがあるが、私にしたら
「透明になる」って言い方のほうが印象に合っている。

親父より先に母方の祖母さんが死んでいるんだが、
その余命数か月の祖母さんを見た時もそんな印象を受けた。

物凄く透明になっていくんだ、何かが。

ただ透明になると逆に輝きを増す部分もあった。

灯りに掛けてあった覆いがどんどん剥がれるように、
そこの輝きはどんどん増す。
だから、その猫の最期は非常に美しかった。

それでも死後数分。
火が消えるように内側からその灯りが消えると、途端に「?」ってなる。

3匹目の猫の時もそうだった。

3匹目は20歳だったから、ほぼ老衰といっても差し支えない。
2匹目の猫を見送って、しばらくしてから透明になり始めた。
そして半年後くらいに旅立っていった。

 

3匹目も私の腕の中で息絶えて、その後もずっと抱えていたのに、
やっぱり数分後には「?」となった。

 

更にこの辺が絵描きの性だと思うんだが、
猫が死ぬと火葬にする前に姿をスケッチしてみるんだ。

いや、死体愛好とかそうゆう話じゃなく、
物理的に存在している姿を描けるのって、もうそれで最後だから。

それなのに・・・・
その中身がないものは絶対に生きて眠っているようには描けない。

うちの猫は家飼いで病死だから、いずれも遺体はとても綺麗だ。
普通に見たら眠っているみたいなんだ。
それなのにそのようには描けない。

そうやって2匹の猫の死に顔を描こうとしてはやめ、
間に親父の死を挟んで、ようやく認める事にした。

私が描きたいのは、
本当に細密に描きたいものは外側だけじゃない。
やっぱりあの内側に灯る光を描きたいんだ。

 

私が細部にこだわるのは、その輝きが細部にまで行き渡っているからだ。
毛の一本、爪のひとかけらに至るまで、それは行き渡っている。
それを余す事なく描き切りたい。

逆にそれが籠められないなら、どれだけ細密で写実でも意味がない。

 

単純に姿かたちを紙に乗せるのではなく、
魂と呼ばれるものを紙の上に座らせてみたいんだ。

 

これが拘りがないようで拘りがある、私の絵の話だ。

それを明確にしたのは、多分うちにいた猫達なんだと思う。
その話はまた別でいつかさせて頂こう。

 

そして・・・・
その内側の光、死んだ後どうなると思う?(笑)

この話もまた別口で。

 

いずれにしろ、こうゆう事情もあるから
“見えない世界の話”
というのは、私にとっては結局創作においても切っても切れない話だ。

そして
“見える世界にあるもの”
も同じウェイトでやっぱり大事なものである。

いくら中身が大事と言っても、魂だけのものとは出会えないからな。

いやいや、
「猫(の魂だけ)飼っているんです」
とか、流石にそれはない。

っていうか、世間でそれは「取り憑かれている」と言う(笑)

確かに今でもうちの猫、たまに家の中歩いているけどな!!(爆)

 

世界の境界に立つ

肉体と精神、
見えるモノと見えざるモノ。

多分、その間にいるよりも、どちらか一方に傾いたほうが遥かに楽だ。
遥かに葛藤は減る。

ただね、私は絵描きとして、その狭間に見えるものをずっと見ていたいんだ。

細い境界の上に身を置くには、常にバランスを取り続けなければならない。
だけど、そこから見える景色はその努力に値する美しさだからね。

結局、世界の美しさに取り憑かれているのだよ、私は。

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