
巨猫が他界してぼちぼち100日である。
仮に本当に魂的なものがあるとして、
それを人が認識した際には
「幽霊」
と定義するとして考える時、
獣の魂は一体何を考えているのだろう?
猫は生きていても死んでいても安定の“お猫様”
我が家の猫が亡くなると起こる
毎度お馴染みの現象は、
“死んだはずの猫が家内をウロウロする”
という事だ。
猫に限らず複数の動物と暮らすと
その個々の性格の差というものを
嫌でも見せつけられる。
育てる人間側は日々それに振り回され、
個性に応じた対応をしていくのだが、
我が家の場合は死んだあともそれが続く。
もっとも自己主張が激しかった
エリンギ王子は、
死後も生前と同じように“エアータックル”を
して私を転ばせそうになったし、
初代は、生前と同じくギリまで私について回り、
半年後に長老が旅立つ際は、再びやってきて
二匹一緒に挨拶をしたのちに旅立っていった。
(でも時々来てた)
長老の時は、先に亡くなった2匹が迎えにやってきて
しばらくの間、家中がお祭り騒ぎのような有様だ。
更に初代と長老は、ダンナの部屋にも出入りしていたせいか
私がいない時もそこを巡回経路とし、
布団のセンターを占領するという事までしていた。
そして巨猫だが、巨猫のエアー猫生活は
生前の彼と同様に非常に静かなものだった。
というか、あまり家にいなかった。
しばらくの間は、生前同様にベッドの上で
くつろぐ姿を見かけたのだが、
他の猫のように外出先まで付いてくるというのがあまりなく、
時折、姿が全く見えない。
もっとも私は0感で、恒常的に霊が見える質ではないので
単純に認識しきれていないのだとは思う。
巨猫は生前からその巨体に似合わず
我が家でもっとも気配を消すのが上手い猫だったから、
その事も影響しているのかもしれない。
そして、元・野良だった故、
さっさと自分の今の立場を察し
遊びに出掛けたのかもしれない。
んで、まぁ遊びに行っている先・・・なのだが、
どうも猫として何とも言えない場所に
行っていたようなんだわ。
猫と神社と願掛け
巨猫の病気が判明してすぐ、やっぱり例の社に伺い
実に十数年ぶりに願掛けをした。
やり方は、長老の時とはまたちょっと違って
今回はベーシックにお百度を踏んだ。
しかし、この場合「方法」はどうでもいい。
問題は「対価」である。
勿論、今回も私から持っていってもらって
全然かまわなかったんだが、
ただ、前回と同じ対価という訳にはいかんのだ。
前回「私から幾らでも寿命を持って行ってくれ」とは言ったものの、
実際には寿命を取られるというよりも
“私の人生の一部を薄切りにして持って行く”
という絶妙な回収方法だった。
(あくまで私個人で感じた感想です)
が、タネ明かしをされた後の手品の面白みが下がるように
タネを知ってしまうと対価の価値は下がる。
そしてお礼として本山に行くとしても
今の私にとってそれは‟安すぎる対価”なのである。
何しろ、今の私にとって本山まで詣でるのは
絵を一枚仕上げるよりも簡単なのである。
山の上の奥宮まで詣でてもいいが、多分それも安すぎる。
大体、奥宮は何もなくとも一度は行ってみたい場所なので
それを対価には数えられないと思うのだ。
さて、今度は何を対価にしたものか?
んで、そうゆう時というのは、
自分でも思ってもみなかった事が
ペロっと口から出たりするんだよな。
「完治が無理ならせめて最期まで
何とか不足なく面倒を看させて欲しい。
私も猫も納得がいくようにして欲しい。
それを叶えてくれたら、
死後、あの美しい猫を
側仕えとして引き取ってもらってかまわん」
自分でも「はぁぁぁ?」と思った。
何で治して欲しい対象を対価にしているのか?
別にそうゆう前例を知っていたからってわけではない。
(しかもこの時、この話の事なんぞすっかり忘れていたし)
そして結果だが、
確かに完治はせずに猫は亡くなったわけなのだが・・・・
本気の本音の話、
巨猫の日々の治療費は中々莫大であった。
にもかかわらず、何故かそれが捻出出来たのである。
別にあぶくのように金がわんさと湧いて出たわけではない。
「あぁぁぁ、このままだと足りなくなる!」
という状況に陥ると、
仕事=収入が入ってきて支払いが出来る。
そして、巨猫の死については、少なくとも私は納得している。
勿論、寂しさがないといえば嘘になる。
が、納得しているのだ。
自分でも不思議なほどにな。
屁理屈染みている気もするが、
私にしたら十分願いは聞いてもらえた気がする。
では対価の支払いはどうなったか?だが、
それが、巨猫が家にいない理由である。
生前の約束
巨猫が存命中、基本「治るから心配するな」とは言っていたものの
同時に言っていた事がある。
「もうどうしてもあかん時には、
●●にある××という社へ行け。
お前はそこで丁稚奉公しなさい」
最初にこれを巨猫に言った時、
我ながら無茶ぶりを言っているなぁとは思った。
が、「そうなる」という妙な確信もあった。
こうゆう確信は、
頭で考える「そんな馬鹿な事」とは
別の所で発生する。
そしてそれはどうやっても消えないのである。
自分の中にその原因を探そうと考えた時、
‟巨猫は歴代の猫の中で一番美しい猫だった”
という所が思い当たる。
私の美の基準には、以下の二通りがある。
- 自分の個人的感情に思い切り傾いた主観的美
- 個人的感情を切り離した客観的美
ここ数年の黒豚化した巨猫は前者として可愛い。
しかし、元の若かりし頃の彼は全社的美に加え
後者として見ても十二分に美しい猫なのだ。
そりゃ、どの猫もそれぞれ綺麗な所があり可愛い。
だが、巨猫はそれと桁違いの風格と美しさがあった。
それゆえに、アイツは黒猫でありながら
家庭内守護役にならなかったのかもしれない。
いつか、新しい主に仕えないといけないから。
だから、事あるごとに巨猫に社の場所を教えて、
長老の時の話や桜の女史の事を語って聞かせていたのだ。
花土産
そして巨猫が‟ナマ猫”を卒業し、四十九日。
別に四十九日でちょっきり成仏するというわけではないし、
これは仏式での考えなので神社とは関係ないのだが
一応の一区切りとして、またしても深夜に社を訪れた。
2月末から数えて49日というわけで月は4月に移り、
女史の誇るソメイヨシノは散り際で
境内に少しだけある小さな八重桜に
主役を譲った頃だった。
風もない暖かな晩だが、
境内はそこかしこから甘い花の香りがする。
毎年花の時期は、夜や早朝に訪れているが、
こんなに香りに満ちている事など殆どない。
「珍しい事もあるものだ」と、人っ子一人いない
大して長くもない参道を歩いて拝殿までいく。
すると、それまで全く無音に近かったのに
前に立った時から夜間閉じられる引き戸カタカタ鳴り始め、
それが立ち去るまで鳴り続ける。
これに関しては、割と何処でもよくある事なので
特に気にはしなかった。
社を出る前には、女史の所へも伺って
どうやら時々訪れているだろう巨猫を
‟引き続き”可愛がってくれるようにお願いをしたけれどね。
・・・・というか、
どうも自宅にいないなぁという時は、
8割くらいの確率で此処にいたっぽいのだ。
この日まで時折女史に
「うちの猫知りませんか?」
と聞くと
「おる」
と返事が返ってくることが度々あったし、
ダンナに聞くと
「そりゃ、社に行っているだろう」
って言われた。
ダンナ曰く、強制されているわけでなく
“居心地がいいから自分から望んで行っている”
らしい。
そりゃ、確かに自分で頼んだことだが
本当にそんな事あるのだろうか?
だって、猫やで?
所詮は猫やで?
そんな馬鹿な事あってたまるか。
そう疑いつつ、また深夜の市内を飛ばして帰宅。
深夜ゆえ、ダンナの部屋ではなく
自室へ戻ったのだが・・・・
家の中が花の匂いで満ちている。
念のために言っておくが、うちにはそんな香りのする
芳香剤はない。
普段は、ドアを開けると大体獣臭い。
(動物いるから当たり前)
にも拘らず、花の香りがするんだ。何故か。
しかも、神社で嗅いだ花の香りだ。
気のせいかなぁ?と
あえて部屋のど真ん中で
煙草に火をつけ一本吸う。
・・・・吸い終わってもやっぱり花の香りがする。
その日は、もう何も考えず
一杯引っかけて寝たわ。
それから色々と忙しく、
件の社には行っていない。
本当に巨猫があの社で丁稚奉公をしているのかも
結局謎である。
まぁうちのダンナに改めて聞いてみると
「そりゃ、そうゆう風に言って、
そうゆう答えが返ってきている以上、
今も社で眷属の一人として暮らしているだろうよ」
とは言うんだけれどな。
ただそれ以来、女史に声をかけつつ
「猫は元気にしとりますか?」と聞くと
若緑の衣をまとった彼女が
いつもの艶やかさの中に
妙な満悦感をたたえた笑顔を返すのである。
・・・・あれは相当気に入っていると見た。
本当の所は分からないし、
私も姿を見たわけではないが
今この時も巨猫はあの美しい桜の木の枝に
サバンナの黒豹の如く垂れ下がり
永久の午睡を楽しんでいるのかもしれない。
余談
実はこの神社のお百度石は、桜の女史の足元にある。
しかも普通に行ったら気付かない裏側にある。
「お百度石あったかなぁ?」と思って聞いたら
「ある!!」と凄い断言されたのだが、
そりゃ断言するはずだ。
本当、あの人面白いわ。